全日本女子バレーボールの今日、そして明日 〜東京オリンピック編〜

装い新たに東京オリンピックに向けて歩む全日本女子バレーボールチーム。当ブログでは全日本女子バレーボールチームに関する情報を、全日本女子バレーボールチーム活動時期、並びに関連情報を筆者の独断と偏見で掲載いたします。

カテゴリ: 忘れ得ぬ全日本

人生は何度か転機が訪れることがある。
努力し頑張り続けていれば、才能が開花することもある。

33歳で全日本初招集された森和代選手は遅咲きの花。

岡山シーガルズとなる以前の、東芝シーガルズから一転シーガルズとしてクラブチームとして再スタートを切った当時からのメンバー。

そんな森和代選手が全日本に招集されたのは、体制が一新された眞鍋ジャパン発足の2009年。

この年、ワールドグランプリ2009で全日本デビュー。

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ただ、この話はこれで終わらない。
2011年、井上香織、大友愛選手と相次ぐ主力選手の故障により、急遽森選手に白羽の矢が立てられる。

ブロードを打てる選手が欲しい眞鍋政義監督の抜擢によるものだった。

かくして森和代選手は35歳にしてワールドカップの舞台に立った。


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残念ながらロンドンオリンピックへの出場は叶わなかったが、ベテランらしい落ち着いた口調で記者陣からも人気が高かったという。

V-league300戦連続出場の記録を打ち立てコートを去った森選手。味のある技の冴えるシーガルズの系譜は山口舞選手を通じ、今日まで受け継がれている。





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全日本の選手として目立つことは少なかった。
ミドルブロッカー受難という時期も悪かったかもしれない。

活躍期間こそ短く、地味だったかもしれないが、要所での活躍が光ったのは平井香菜子選手。

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出番はロンドンオリンピックの世界最終予選。
山本、井上選手といった主力の相次ぐ故障により平井選手に白羽の矢がたった。

得意技はスピード感溢れるブロード。
ロンドンオリンピック本線出場こそ果たせなかったものの、存在感を示した。

第二期眞鍋ジャパンのメンバーにも選出されるも、チームはMB1〜ハイブリッド6という新戦術が試され、ミドルブロッカー受難の時期を迎えた中、平井選手は第一線から退いた。

183cmの長身と最高到達点306cmと全日本の水準を見事にクリアした筑波大学卒の俊英。

惜しまれる選手のひとりである。




日本のリベロ第一号は津雲博子選手である。

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元々、リベロはどうして出来たかというと、守備の良い日本に対抗するために出来たポジションで、本来、日本にはあまり必要ではなかった。

しかし、世界のバレー界の動向を受け、日本でもリベロの必要性が検討された。

国内でリベロ制度が検討されたのは1997年のこと。今からおよそ21年前のこと。

当時は大林素子さんの時代から多治見麻子選手、熊前知加子選手、江藤直美選手の時代への転換期。竹下佳江さんが全日本に加わったのもこの頃。

仙台ベルフィーユでも監督を務められた葛輪伸元さんが全日本女子バレーポールチームを指揮している。

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こうした時代の転換期の中にあって、津雲さんはNECレッドロケッツで活躍、元々はライトやレフトプレイヤーでキャプテンとして活躍。1997年に全日本入りを果たすと、守備力の高さを買われ、同年のワールドグランドチャンピオンズカップより新設された全日本リベロの第一号となる。

1998世界選手権、1999年のワールドカップにも出演。ワールドカップではベストレシーバー、ベストリベロの二冠に輝き、世界一のリベロと謳われる。
しかしながら、シドニーオリンピックにはOQTで敗退の憂き目に遭い、念願のオリンピック出場は叶わなかった。

元々、高い守備力こそ日本のお家芸。
後に佐野優子選手へ連綿と伝わる世界一のリベロへの系譜は、津雲選手の活躍から始まった。現在でもバレーポール教室などでご活躍されている。

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現在、全日本のコートを死守するのは井上琴絵選手たち。世界一の系譜を継ぎ、歴史に名を刻めるか、その活躍を津雲さんも見守っている。







今でも語り草となっているロンドンオリンピック準々決勝・中国戦。

最終セットまで全て2点差という史上稀にみる大激戦。

木村沙織、江畑幸子選手のダブルエースが揃って33得点を叩き出した激戦に終止符を打ったのは、セッター・中道瞳選手。

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最終セット、16-16の同点でピンチサーバーに起用される。

最も緊張する場面で、中道選手はサーブで崩し、荒木選手がダイレクト。

マッチポイントを奪う。

そして、17-16。
運命の二打目。

中道選手の放ったサーブが相手レシーバーを崩し、返球はアウト。

この瞬間、全日本女子バレーボールチームは
史上初めて、オリンピックで中国を破り、準決勝へと駒を進めた。

中道選手は土壇場で大仕事をやり遂げた。


当時、中道選手の所属チームである東レアローズは黄金時代。

全日本にも荒木、木村、迫田選手を擁し、東レのレギュラーセッターである中道選手もまた、全日本からお声が掛かっていた。

当時の全日本と言えば、「世界最小・最強セッター」と謡われ、世界選手権でもMVPを獲得。

日本バレーボールのセッター・第一人者。

中道選手は控えに回らざるを得なかったが、木村、石田選手と並ぶサーブの名手。

たゆまぬ努力の成果が結実した。

チームはロンドンオリンピックで銅メダルを獲得。

2010年世界バレーに続くメダル獲得に沸き返り、国内にバレーボール熱が甦る。

中道選手はロンドンオリンピック後、持病のアキレス腱痛が再発。

第二期眞鍋ジャパンのメンバーに選ばれるも、当初、全日本の活動には参加していなかった。

体制一新の中にあって、数少ないロンドン経験者である中道選手は、チームメイトの迫田さおり選手とともにグラチャンにて全日本復帰。

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同大会で正セッターとして活躍。
チームは新戦術MB1を引っ提げ、メダル圏内で活躍。最終戦ブラジルに敗れるも、チームの銅メダル獲得に貢献する。

見事ベストセッターに輝き、全日本の正セッターとしての道を歩み始めたかに思えた中道選手。

翌年、全日本はハイブリッド6なる新戦術を投入。

ワールドグランプリでは連敗スタートながら途中から快進撃を続け、遂にファイナルにまで駒を進め、惜しくも銀メダル。

すわ、世界一への道が近くなったかに思えた。

ところが、続く世界選手権の開幕戦。
楽勝ムードにあったアゼルバイジャン戦でよもやの逆転、フルセット負けを喫し、雲行きが怪しくなる。

第一次ラウンドこそ通過したものの、第二次ラウンドではクロアチア、イタリアに敗れ、最終戦を待たずに二次ラウンド敗退。

最後のドミニカ共和国戦では、フルセットになりながら、チームメイトの迫田選手にボールを集め、勝利を手にする。

しかし、これが中道選手最後の全日本の晴れ姿となった。

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Vリーグ開幕後、中道選手は不調をきたし途中を欠場。中道選手は後半復帰するも、東レは停滞したまま、6位で終え、中道選手は現役を引退。

昨年、チーム事情で復帰するも、コートに立つことのないまま、再びユニフォームを脱いだ。

もし、リオに中道選手が駒を進めていたら、果たしてどうなっていたか、今でも惜しまれる。

ロンドンでの一斉一代の晴れ姿。
今でも名勝負とともに語り継がれる。

活躍期間は短かったが、頑張り続けることで花開く人生もある。

トレードマークはコート一杯に下がってのロングサーブ。ワールドグランプリ2014で遅咲きの花は、開花した。

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高田ありさ選手。
同期はチームメイトの木村沙織選手。

九州文化学園高校時代はミドルブロッカー。水田祐未選手とともに闘い、高校三冠を達成。ライバルだった木村選手とは卒業後、東レでチームメイト。そして、親友となる。

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そんな高田選手の全日本デビューは遅く、27歳の時。パスヒッターとして請われ、ワールドグランプリ2014で国内デビュー。

ついたニックネームがアジアンビューティー。

ハイライトは直後に行われた世界選手権。
イタリア戦で相性の良さを変われスタメン出場し、活躍も見せるもチームは敗退。
だが、相手ブロックを巧みに利用した上手いアタックで存在感を大いにアピールした。

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そんな高田選手の思い出は、現役最後の試合となった2015/16シーズンのVプレミアリーグ、ファイナル3。

東レvs久光の一戦は激しい激闘となり、遂にフルセットへともつれ込む。
しかし、前の第四セットで木村選手が足を吊り退場。久光のワンサイドとなり13-4とリードする中、東レは迫田選手にボールを集め猛反撃。たちまち10-13に詰め寄る。
最後は野本選手のブロックが決まり、久光が辛くも逃げ切るも、あの中田監督をして、本当の死闘はこのゲームと言わしめるほどの激戦となった。

最後、無念の余りに号泣する高田選手をはじめ、木村、迫田選手の姿が忘れられない。

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Vリーグ史上に残るベストマッチ。
高田選手のリーグ出場は、この一戦で幕を閉じた。

名勝負とともに、今でも語り継がれる。

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